2007年9月29日 (土)

父 (2)

父と私が最後に会話したのは私の誕生日から1週間ほど経った春の日であった。私の家の近くに小学校があったのだが、その日はそこの桜がとても綺麗だったことは今でも鮮明に目に焼きついている。

母方の叔父は腹膜透析患者であり、仕事が出来る体ではなく、祖父母の家で養生していた。その叔父が私の誕生日前後に病状が悪化し、急遽入院し、手術することが決まった。その時、父から珍しく電話がかかって来た。父は「今、家の近くにいるが、家に行きづらいので小学校の近くまで来てくれないか。」と私に言った。私は急いで靴を履き、全速力で小学校まで走った。

父は小学校前に車を停車させ、私を待っていた。父の磨き上げられた黒い車には桜の花びらが沢山付いていた。それを見た私は父がこの場所で家に行こうかどうかをかなり悩んでいたのだろうと悟った。父は私が近くにやってきたのを確認すると、ドア開け、車から降りた。久しぶりに見た父の顔は痩せ細っており、髪も寝起きのように整えられておらず、無精髭を生やしていた。私の知る父はいつも身なりには気を使っていた。父は髪は必ず整え、髭を剃り、風呂の湯にはユーカリの香油を入れる程だった。そんな父が髪を乱し、無精髭が生えている姿をしていることが、私にとって非常に辛かった。

父は後部座席からバックを取り、三百万ほどの金を私に手渡した。「叔父さんの手術の足しにでもしてくれ。」父はそう言うと足早に帰ろうとした。私は何も言わず、父の背広を掴み、離さなかった。いや、離したくなかった。父は振り向き、私の頭に手を乗せ「聡。強くなれよ。」と言い、頭を軽く二回ほど叩いた。私は涙を目にとどめる事はもう不可能になっていた。それを見た父は私を抱き寄せ「すまん。」と一言かけた。それから父はそっと私から離れると、車のエンジンをかけ、走り去っていった。私は桜の花びらが舞い落ちる中、立ち尽くした。そして、涙はより勢いを増しながら流れ落ちた。皮肉にもその時の桜はいつもより綺麗だった。

この日を境に父からの連絡はまったく来なくなった。私は父を恨んだ。しかし、年月が経つにつれ、私は父の記憶が薄れていくのを感じた。そして、恨みも薄くなってた。私は自己防衛的に父を忘れようとしたのかもしれない。が、『父と別れた日』の記憶だけが鮮明になっていくような気がする。

終わり

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2007年9月28日 (金)

父 (1)

私は心底、父という人間、存在を憎いと思っていた事は間違いないだろう。

私が幼少の頃は父の事が大好きだった。私の父は漁師町出身という事もあり、肌の色が黒く、体躯は筋肉質で太かった。そして、父は優しかった。幼少の頃の私は非常に肌の色が白く、病弱であった。なので、たくましい父の体を見て育った私は、いつか父のような人間になりたいと何度も思ったものだ。

そんな良い父が変わり始めたのは、父の経営していた旅行代理店が軌道に乗り出してからだろう。会社は見る見るうちに大きくなり、昔は私の実家の横に10帖程度の事務所を構えているだけの会社が、いつの間にか繁華街の駅前にビルを建てるぐらいに成長した。父は大金を持つようになってから、母に暴力を振るうようになった。

私と次兄が夏休みに親戚の家に遊びに行った時、長兄は実家で受験勉強をしていた。その時、長兄は真夜中に母が父に首を絞められているところ目撃し、止めたと言っていた。母はそのおかげで命が助かったのは言うまでも無い。私の母は元々精神的に弱い人間であったが、さすがにこの当時は毎日のように母は泣いていた。

この事件から父は次第に家に帰って来なくなった。父が家に帰って来なくなってから私は父と母は離婚することを予感していた。振り返ると、私がそれを予感することはもはや必然だったように思える。しかし、私は両親の離婚を断固反対した。長兄と次兄は二人とも分別がわかる人間だったのだろう、彼らの心中は知らないが彼らは反対をしなかった。私は父をどうしても家に帰ってくるように、当時では非常に珍しかった携帯電話を父は持っていたので、私は毎日のように電話をして「今日、帰ってくる?」と何度も聞いたものだ。今思うと、この時の私は非常に辛かったが、父の方が辛かったのかもしれない。

私が父を父として最後に見たのは12歳を迎えてすぐの事だった。

その当時、母は仕事の都合で大阪と中国に行く機会が多く、実家には我々三兄弟で生活していた。食事の時は祖父母にお世話になっていたが、我々三兄弟は煮物ばかりの食事に不平不満を漏らしてばかりであった。その事で腹を立てた祖母は我々三兄弟の食事を用意しないようになった。困った我々は自分たちで作ろうとしたが、結局力の弱い私はいつも夕食を無理やりに作られていた。しかし、私は料理することは嫌いではなかったので、苦にならなかった。

私は父がよく作ってくれた「肉炒め、そして野菜炒め」と言う料理が大好きだった。ただ肉と玉葱と人参を、塩と胡椒を多めにして炒めるだけの料理なのだが、父はその料理を「野菜炒め」と呼んでいた。が、私は「肉があったら、野菜炒めとちゃうわ。」と文句をいったので、父は微笑みながら「『肉炒め、そして野菜炒め』ならええか?」と言った。私はその笑顔を思い出すかのように、そして父が帰ってくる事を願いながら、私は「肉炒め、そして野菜炒め」を毎日のように作った。しかし、父は帰って来なかった。そして、両親は離婚した。

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